ある年の夏、僕は仕事の疲れを癒すため、一人で田舎の古民家に泊まることにした。都市部の喧騒から離れて、静かな時間を過ごそうと思ったのだ。インターネットで見つけたその古民家は、山奥の小さな村にあり、築100年以上の歴史があるという。非日常的な空間でリフレッシュできると期待していた。
現地に着くと、管理をしているという70代くらいのおばあさんが出迎えてくれた。白髪をお団子にまとめた彼女は、にこやかな笑顔で部屋の鍵を渡してくれたが、最後に一言こう付け加えた。
「夜中に誰か訪ねてきても、絶対にドアを開けちゃダメだよ。」
「え?」と聞き返そうとしたが、おばあさんはそれ以上何も言わず、静かに帰っていった。冗談だろうと思いながらも、妙にその言葉が頭に残った。
古民家の中は静かで、どこか懐かしい雰囲気があった。広い畳の部屋、年季の入った木の梁、そしてかすかに香る古い木の匂い。僕はすぐにリラックスして、持参した本を読んだり、外を散歩したりして過ごした。
しかし、その夜。
布団に入ってしばらくした頃、外から妙な音が聞こえた。
ゴト……ゴト……引きずるような、重い音だ。最初は風で物が倒れたのかと思ったが、音は次第に近づいてくる。玄関の方だ。
そして、ドアの向こうから何かが叩く音がした。
コン……コン……。
僕は布団の中で固まり、耳を澄ませた。風の音ではない。まるで人がドアを叩いているような、規則正しい音だった。
そして、低く濁った声が聞こえた。
「……コ……ォォ……カ……ォォ……」
何を言っているのか分からない。ただその音は、人間の発する声とは思えなかった。低く、湿ったような音が、ドア越しに響く。
心臓がバクバクと鳴る。怖くて体が動かない。音はますます大きくなり、叩く力も強まっているようだった。ドアの向こうには誰がいるのか。
勇気を振り絞り、そっと部屋を出て玄関に向かう。
僕はドアの隙間から外を覗いた。
そして、凍りついた。
そこには、赤黒い何かが立っていた。ぬめりのある肉塊のようなそれは、かろうじて人の形をしているが、歪んでいて、顔には穴のような空洞が空いているだけだった。目も鼻も口もない。ただ、その暗い穴から低い音が漏れ出している。
「……カ……ァ……ォォ……」
人ではない。それは明らかだった。しかし、見つめていると、不思議な感覚に襲われた。視線が吸い込まれるような、引き寄せられるような気分だ。
ドアを開けそうになったその時、背後から誰かが叫んだ。
「開けるな!!」
振り向くと、あのおばあさんが立っていた。彼女は慌てた様子で僕の肩を掴み、玄関から引き離した。そして、ドアの前で何かを唱え始める。
「な、なんなんですか、あれは!」
おそるおそる聞くと、
「あかぐろだよ。人のふりをして近づく悪いものだ。一度入れたら、ずっと取り憑かれる。」
と、一言そう答えた。ドアの向こうでは、低い音が次第に遠ざかっていく。僕はその場に崩れ落ち、しばらく立ち上がれなかった。
翌朝、僕はおばあさんに深く礼を言い、予定を早めて村を去ることにした。
その後、都会に戻り、仕事に復帰したものの、時々あの赤黒い何かが夢に出てくる。夢の中では、そいつがドアを叩いている。
「……カ……ァ……ォォ……」
現実でも玄関の音が気になるようになった。誰かが訪ねてきた時、必ずチェーンをかけたまま確認する。いつかまた、あれが訪れるような気がしてならない。
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