子どもの頃、拓海の地元では「にょきりさん」という謎めいた存在が有名だった。学校帰りの通学路、電柱のすぐそばに、いつも奇妙な姿をした人影が立っている。遠目には人間らしさを感じるのだが、近づこうとする勇気は誰にもなかった。手足と首が異常に長く、帽子を深く被っているため、性別も年齢もわからない。立っているだけなのに、その場の空気を微妙に歪ませるような存在感があった。
「にょきりさん、今日もいたな」
「いるよ、いつも」
子どもたちはそうやってにょきりさんの話を口にするが、不思議なことに誰も怖がらなかった。ただ、近づいたらいけないという暗黙の了解があった。それでも、好奇心旺盛な子どもたちはその存在に興味津々で、遠巻きに観察する日々だった。
しかし、大人たちには見えないらしい。
拓海も、小学低学年の頃、家に帰って両親にこう尋ねたことがある。
「お父さん、あそこの電柱の横にいつも立ってる、あのにょきりさんって何?」
「…にょきりさん? 何の話だ?」
その反応に違和感を覚えたのを、今でも覚えている。周りの大人も同じだった。どれだけ説明しても「何もいない」と一蹴される。次第に、子どもたちの間では「にょきりさんは子どもにしか見えない」という噂が広まった。
ある日、小学四年生になった拓海は、クラスの仲間たちとにょきりさんの周りを取り囲み、「タッチしてみよう」と言い出した。普段ならそんな勇気を持つ子はいなかったが、悪戯心が過ぎてしまった。
「絶対ヤバいって!」
「大丈夫だよ。ただ立ってるだけじゃん。」
友達の制止を振り切り、拓海は意を決してにょきりさんに手を伸ばした。そのときだった。ほんの一瞬、にょきりさんがこちらを向いたように感じた。顔は見えなかったが、妙な視線を全身に浴びた気がした。そして、拓海の指先がにょきりさんの足に触れた瞬間――周りの空気がすっと引き締まった。
「……何も起きないじゃん」
友達と笑いながらその場を後にしたが、拓海はその日から、どこか胸騒ぎのような感覚を覚えるようになった。
小学六年生になると、にょきりさんを話題にする子どもたちはほとんどいなくなった。拓海の友達もそうだった。聞いても「にょきりさん?そんなのあったなぁ」と曖昧な返事をされた。そして、卒業する頃には、にょきりさんの存在そのものを忘れているようだった。
「にょきりさん? なんのことだ?」
高校時代、地元の友達に話を振ってみても、そんな軽い返事しか返ってこなかった。
しかし、拓海だけは違った。社会人になり地元を離れてからも、ふとした瞬間ににょきりさんの姿が目に入る。会社の近くの裏路地、出張先のホテルの窓から見える街角――どこに行っても、あの長い手足と深い帽子の影がちらつくのだ。
「なんで俺だけ……?」
考えられる理由はただ一つ、小学生のあの日、にょきりさんに触れたこと。それ以外に心当たりはなかった。
別に悪さをするわけではない。近づいてくることもない。ただ立っている。いつも通り、同じ場所で。にもかかわらず、その存在は拓海にとって次第に重荷になっていった。
仕事帰りの夜道、またにょきりさんが見えた。電柱のそばでこちらを向いている気がした。無意識のうちに足が止まる。
「俺、何かしたのか?」
声に出してみても、当然答えは返ってこない。にょきりさんはただ立っているだけだった。
拓海はそっと視線を外し、歩き出した。背中ににょきりさんの視線を感じるような気がして、早足になる。やがて家にたどり着くと、全身が汗ばんでいた。
にょきりさんが自分に見える理由が呪いなら、どうすれば解けるのだろうか。
これは呪いなのか?それとも――
コメント