大学生の頃、私は小さな個人塾でアルバイトをしていました。塾は古びた雑居ビルの2階にあり、生徒数は10人ほど。先生も3人だけのこぢんまりとした塾で、少人数制だからこそ生徒一人ひとりと親しく接することができる環境でした。
その日は夜10時半を少し回った頃、私は一人で教室の片付けをしていました。最後の授業が終わり、生徒たちは全員帰宅。塾長も先に帰り、鍵の施錠は私に任されていました。少し心細かったものの、慣れてきた作業だったので特に気にせず机を拭いたり椅子を整えたりしていました。
片付けを終え、廊下を歩いていると、背後から「先生」と呼ぶ声が聞こえました。振り返ると、小学生くらいの女の子が立っていました。私の担当の生徒ではありません。
ただ近々体験授業の子が来るという話は耳にしていたので、その子だろうと思いました。
「どうしたの? まだ帰ってなかったの?」と声をかけると、彼女は少し照れたように笑い、「お母さんが迎えに来るのを待ってるんです」と言いました。
「そうか。じゃあ一緒に待とうか」
私は教室の電気を一つだけ点けて、彼女と一緒に迎えを待つことにしました。何か引っかかるものを感じつつも、特に怪しむ理由もなく、向かいの席に座って彼女を見守りました。
「今日は体験授業だったの?」
不意にそう聞くと、彼女は一瞬目を丸くし、「うん」と小さく頷きました。
それから少しだけ他愛もない会話を続け、ふと時計を見ると、すでに夜の11時近く。
迎えにしてはずいぶん遅い時間です。不安に思った私は、「電話してみたらどう?」と提案しました。すると彼女は、首を横に振りながら笑って「もう少し待ってみます」と言いました。その笑顔にはどこか不思議な落ち着きがあり、なぜかそれ以上押し問答する気になれませんでした。
しかし、それから10分、20分と時間が過ぎても迎えは来ません。気になった私は「塾長に連絡してみるね」とスマホを取り出しました。その時です。
顔を上げると、そこに彼女はいませんでした。
あまりに突然のことで、私の心臓は大きく跳ね上がりました。慌てて教室を見回しましたが、教室のドアも廊下も物音一つせず、まるで最初から誰もいなかったかのような静寂が広がっていました。
「…どこ行ったの?」
恐怖と混乱が頭を駆け巡り、私は荷物を掴んで急いで塾を後にしました。
翌日、私は塾長にそのことを話しました。「もしかして、新しい子が体験授業に来てたんですか?」と尋ねると、塾長は一瞬驚いた顔をし、それからこう言いました。
「…いや、体験授業があったのは男の子だよ。でも、たぶん、きっとあの子だね」
「あの子?」
塾長は少し顔を曇らせて語り始めました。数年前、この塾に通っていた女の子が、塾の帰り道で交通事故に遭い亡くなったのだそうです。その子は明るく真面目で、いつも母親が迎えに来ていました。しかし、事故のあった日だけはお母さんが急用で迎えに行けず、一人で帰る途中だったのだとか。
「…もしかしたら、迎えを待ってるのかもね」
そう塾長が言った時、昨日の彼女の穏やかな笑顔と「もう少し待ってみます」という言葉がフラッシュバックしました。
その後、私は塾で夜遅く一人になることを避けるようにしました。それでも、夜遅くなるとふと教室の窓越しに誰かがこちらをじっと見ているような気配を感じることがあります。そのたびに、振り返る勇気が持てず、ただ早く帰りたい一心で鍵を閉めて帰ります。