僕が盗まれた

怖い話

近所に住むおじいちゃんは、いつも家の前に椅子を置いて日向ぼっこをしている。少しボケているようなところもあるが、穏やかで気さくな人だ。たまに話しかけると、昔話や面白いエピソードを語ってくれる。でも、その日のおじいちゃんの話は、いつもの笑えるものではなく、奇妙でぞっとする話だった。

「あんた、影執りの村って知っとるか?」

いつもの柔らかいトーンとは違う、おじいちゃんの真剣な声に驚いた。「影執りの村」とは、人の影を操るという儀式が行われていた、今は地図にも残っていない山奥の村のことだった。その村では「影は魂の一部」と考えられ、影を切り離して布に封じ込め、別の人間に移すことで病気を治したり、寿命を延ばしたりしていたという。

「その儀式に使う布が『影紋』じゃ。影を吸い込むための特別な布でのう、渦巻きの模様が影を引き寄せるとか何とか…」

おじいちゃんは、まるでそれを実際に見てきたかのように語る。

「影を奪われたらどうなるの?」と聞くと、おじいちゃんは少し間をおいて答えた。

「体が弱り、次第に魂まで枯れていく。代わりに、その影を奪った者は健康と長寿を手に入れるらしいが…どんな儀式でも代償はつきもんじゃ。」

話が終わったと思ったそのとき、おじいちゃんは椅子の下から薄汚れた布を取り出した。

「これがその影紋じゃ。」

そう言って広げた布は、黒ずんでいて、ところどころに渦巻き模様が描かれていた。日が後ろから差していたので、その布には僕の影がぴったりと収まって見えた。冗談だと思って、「怖がらせないでよ!」と布を拾い上げようとした瞬間、おじいちゃんが大声を出した。

「動くな!」

その声の大きさと鋭さにビクッとして手が止まった。おじいちゃんの目はいつもの穏やかさとは違い、恐ろしいほど真剣だった。僕は仕方なくその場に立ち尽くし、布に落ちている自分の影を見つめた。すると影が、まるで布に吸い込まれるように揺れ動いた気がした。

「見間違いだろう」と思いながら目を擦ると、おじいちゃんはいつもの穏やかな表情に戻り、「すまんかったね」と布を拾い上げ、自分の体に羽織った。そして、「冷えてきたのぉ」と言いながら鞄から別の布を取り出し、無理やり僕の肩に掛けてきた。

「いや、もう帰るよ」と布を返そうとしたけれど、おじいちゃんは異様に強い力で僕を押さえつけ、「少し座っていきなさい」と隣に座らせた。その力強さに逆らえず、仕方なく隣に腰を下ろすと、いつものおじいちゃんに戻り、他愛のない話を始めた。

いつの間にかウトウトしてしまい、ふと冷たい風が当たって目が覚めた。

顔を上げて前を見ると、目の前には自分がいた。いや、正確には、自分の姿をした誰かが、僕を見下ろしていた。

「体が軽い!頭も冴えてる!若いっていいなぁ!」

その声も自分のものだった。

混乱して声を上げようとするが、声がうまく出ない。口から漏れたのは、シワがれた掠れ声だった。そして気付く。視界の端に映る手が、シワだらけで骨ばっていることに。目の前の「自分」が僕の声で言った。

「ありがとう、おじいちゃん。そろそろ帰るね!」

そう言うと、ニヤリと笑って走り去ってしまった。

手足を動かそうとするが、まるで言うことを聞かない。とにかく自分の家に帰らなくてはと色々なものに捕まりながらヨタヨタとなんとか道路まででる。すると、近くに止まった車の窓に自分の姿が映った。その姿はあのおじいちゃんだった。

信じられず狼狽える。思うように足が動かせず、這うように進み出した僕の目の前に、誰かの足元が見えた。顔を上げると、優しそうな顔をした警官が立っている。

「おじいちゃん。また徘徊してるの?あなたのお家は逆でしょう。足も悪いのに無理に動いたら怪我するよ。」

そう言って、僕をゆっくり立たせて支えてくれる。その親切な声に一瞬安心しかけたが、違う。僕はこの体の持ち主じゃない。説明しなきゃ。

「入れ替わって、僕が盗まれた。家は近くの酒屋の前で…」

声を絞り出したが、それは自分の声じゃない、しわがれたか細い声だった。警官は軽く笑って、

「わかったわかった。それって最近よく遊びに来ているって言ってた子でしょ?なんか記憶混同してるよ。送るから一緒に帰ろう。」

その言葉に絶望した。どんなに違うと訴えても、誰も信じてくれない。警官2人がかりで体を支えられながら、おじいちゃんの家――つまり今の「僕の家」へと連れて行かれる。

ポケットを探ると、家の鍵が入っていた。それを差し込むと、鍵はしっかりと回り、扉が開く。中に入ると、家の中はガランとしていて、生活感がほとんどない。必要最低限の家具と敷きっぱなしの布団だけがそこにあった。

布団に横になると、全身の節々が痛む。これが「おじいちゃんの体」なのかと嫌でも実感する。だが、きっとこれは夢だ。目が覚めたら、きっと元に戻っている。そう信じて目を閉じた。

ピンポーン。

チャイムの音で目が覚める。いつの間にか朝になっていたようだ。目覚めた瞬間の体の痛みはそのままだった。

「夢から覚めてない…?」

ガチャリと鍵を開ける音がして、誰かが家に入ってくる。ドスドスと足音が近づき、玄関に現れたのは見知らぬ中年の女性だった。

「お父さん?迎えに来たよ。こんな寒いカッコして。風邪ひいてもしらないよ?」

その人は手際よく荷物をまとめ始めた。慌てて声を絞り出す。

「どこか行くの?」

「やだ、先週説明したばっかじゃない。グループホームの空きがやっと出て入れることになったって伝えたでしょ?」

呆れたような口調で言われ、頭が真っ白になった。ぼんやりしたまま、それでも必死に言葉を紡ぐ。

「違う…ここじゃない。自分の家に帰らないと。」

だが、彼女は手を止めずにこう答えた。

「家はここでしょ?やっぱりどんどんボケが進んでるわ。専門のグループホームがやっと空いてよかった。」

僕の腕を掴んで引っ張り上げようとする。出せる限りの力で抵抗しても、今の体では全くかなわない。玄関には数人の同じ制服を着た人たちが待っていた。

「はじめまして。お迎えに来ました。安心してくださいね。」

そう言いながら、数人がかりで僕を支え、車に乗せてしまった。車の中ではガッチリと周囲を囲まれ、どうしても抜け出せない。

窓の外を見ると、僕の姿をした「あいつ」が立っていた。僕の家の前で、にやけた顔でこっちを見ている。

「あ!」

思わず声を上げ、車の扉を開けようともがいたが、押さえつけられて身動きが取れない。車が動き出した。

動き出した瞬間、目が合った「あいつ」は、清々しいほどの笑顔で僕を見つめていた。その笑顔は、僕のもののはずだった。

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