瞳の中に映った景色

怖い話

数年前、私はある資産家の邸宅で家政婦として働いていました。そこは本当に立派な家で、門をくぐるとまるで別世界。広い庭には手入れされた植木が並び、どこか美術館のような静けさが漂っていました。家主の高松様は40代半ばの実業家で、いろいろな美術品を買い集めるのが趣味の一つのようでした。

当時、高松様が新たに希少な絵画を手に入れたらしいと話題になっていました。それは近代的な作風の油絵で、他の美術品とは少し異なる雰囲気を持っているとか。その絵専用の部屋まで設けると聞いたときには驚きを隠せませんでした。資産家というのは、やはり常人とは異なる感覚を持つものなのだと改めて感じました。

数週間後、私の仕事の一つとして、その部屋の掃除が加わりました。ただし、「その部屋では長居しないこと」「絵画を傷つけないよう細心の注意を払うこと」という特別なルールが課されました。それに加えて、「部屋で何を見ても外部には一切漏らさないこと」という誓約書まで書かされ、その異様さに少し怖気づきましたが、幽霊や超常現象なんて信じない私は、仕事として割り切ることにしました。

部屋に足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んできたのは壁一面に飾られた例の絵画。そこには一人の女性が描かれていました。油絵特有の重厚なタッチで、不気味な雰囲気を醸し出していました。特にその瞳。吸い込まれそうなほど強い存在感を放っていました。

「悪趣味な絵だな」と思いつつ、目を逸らして掃除に取り掛かりました。それから3日に1度、その部屋の掃除をする日々が続きました。絵画を直視することは避け、黙々と掃除をするだけ。特に異常もなく、次第にその部屋に入ることにも慣れていきました。

ある日いつものように部屋を掃除していると、カーペットの上にいくつかの濃い染みを見つけました。暗い色のカーペットだったため最初は気付きませんでしたが、雑巾で拭いたときに初めて、それが赤黒い液体であることに気付きました。

その瞬間、私は数ヶ月ぶりに絵画の女性と目が合いました。そして、私は目を疑いました。絵の女性の目から絵の具が溶けだしていたのです。それはまるで、赤い涙のようなものを流しているかのようでした。

目を逸らそうとしても逸らせません。気がつくと私は絵画に引き寄せられるように一歩、また一歩と近づいていました。絵の中の瞳は微かに揺れているように見え、その奥に何かがあるような気がしてなりません。さらに近づくと、その瞳がまるでガラス玉のように輝いていることに気付きました。そして、その中に映る景色に驚愕しました。

瞳の中には、まるで都市のジオラマのようなものが映し出されていたのです。よく見ると、それは東京のようでした。高層ビルや見慣れた鉄塔のようなものも見えます。しかし、次の瞬間、大きな黒煙がジオラマの一部から立ち上りました。その煙を皮切りに、都市全体が爆発や炎に包まれ、瞳の中は煙で濁ってしまいました。

私はその場で呆然として立ち尽くしました。すると突然、背後でドアが開く音がしました。振り返ると、高松様が立っていました。

「なにしている」

その言葉で我に返り、「あっ、いや……」と言葉を詰まらせました。ふと絵画に目をやると、そこには何の変哲もない、いつもの絵がありました。赤い涙もなく、カーペットの染みさえも消えていました。

「なにか見たか」と高松さんは冷静に問いました。私は混乱しながら、「いいえ、少し手を止めてしまっただけです」と、咄嗟に答えると彼は

「繰り返し言うが、この絵に関することは一切外部に漏らすな。」

そう静かに言い残し部屋を去りました。私も我に返り、掃除道着を片付け退室しようとした時、もう一度あの絵の女性を見てみるとやはりいつもの絵でした。

その後も同じように仕事で部屋に入りましたが、あの日見た異変以来何かが起こることはありませんでした。

それから半年後、親族の介護が必要になった私は邸宅での仕事を辞め、今あの絵がどうなっているのかはわかりません。

赤い涙を流すように見えた絵画の女性。その瞳の中に広がっていたのは、私が住む東京によく似たジオラマの街。その中で立ち上る黒煙。あの日の出来事はあまりにも鮮烈で、現実なのか夢なのか、いまだに分かりません。

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