あれは大学の帰り道のことです。その日は授業が長引いて少し疲れていて、車内でぼんやりと窓の外を眺めていました。終点近くの路線で、降りる人も少なく、気付けばバスには私しか乗っていませんでした。
車内は静かで、運転手さんの咳払いがやけに響いていました。そんな中、何となく外を見ていると、次に止まるバス停の名前がふと頭に浮かびました。そこは地元では有名な墓地の前にあるバス停。普段はほとんど誰も降りない場所です。
「まあ、どうせ通り過ぎるだろう」
そう思いながらぼんやりしていると、不意に「次、止まります」のアナウンスが流れました。
私は驚いて周りを見渡しました。降車ボタンを押した覚えはないし、私以外の乗客もいない。おかしいな、と戸惑っているうちに、バスは減速して墓地前のバス停に止まりました。
扉が静かに開き、冷たい夜風が吹き込んできました。運転手さんがバックミラー越しにこちらを見て、にこやかに声をかけてきます。
「降りないんですか?」
私は戸惑いながら首を振りました。
「いえ、押してないです……」
その時、自分でも驚くくらい声が震えていました。運転手さんは少しだけ眉をひそめ、「そうか」と呟いて再び扉を閉めました。そして何事もなかったかのようにバスは再び走り出しました。
私は震えが止まりませんでした。扉が閉じる瞬間、確かに見たんです。闇の中に、まるで人影のようなものがスッと降りていくのを。それが人間だったのか、それとも違う「何か」だったのかはわかりません。ただ、その影がこちらを一瞬振り返った気がして、心臓が凍るような恐怖を覚えました。
次のバス停までの道のり、車内の空気は異様に静まり返っていました。エンジン音がやけに遠く感じられ、視界の端に何かが揺れているような気がして仕方ありません。必死に窓の外を見つめながら、自分を落ち着かせようとしました。
やっとの思いで終点に着き、バスを降りる際に運転手さんに尋ねてみました。
「さっきの墓地前のバス停、誰も降りなかったですよね?」
運転手さんは一瞬驚いた顔をしてから、笑いながら言いました。
「あそこたまにあるんだ。まあ、気にしないほうがいいよ」
そう言われても、気にしないなんて無理でした。
それ以来、あの路線には乗っていません。でも、あの「次止まります」のアナウンスが耳に残って離れません。あの夜、バスの扉から降りた「何か」は一体なんだったのでしょうか。