その日は、夏休み最後の思い出作りとして、大学の友人たちと海へ遊びに行った。観光地ではない静かな浜辺で、僕たちは各々の時間を楽しんでいた。
僕は特に泳ぎが得意ではなかったため、浮き輪を使って浅瀬でぷかぷかと波に揺られながらのんびりしていた。友人たちも近くで泳いだり、砂浜で遊んだりしていたが、僕は水に入るとすぐに疲れてしまう。体を浮き輪に預け、波に任せながらぼーっとしている時間が心地よかった。
しばらく浮かんでいると、ふと友人たちの声が遠くから聞こえた気がした。振り返ると、彼らは遥か後方、岸近くに見える。
「え?なんでこんなに離れてるんだ?」
気づけば、僕はいつの間にか沖のほうへ流されていた。しかも、そのスピードが尋常ではない。驚いて足をばたつかせ、浮き輪を持ちながら必死に泳いで戻ろうとしたが、まったく進めない。それどころか、どんどん沖へ引き込まれていく。
「離岸流だ…!」
頭の中でニュースで見た映像がよみがえる。沖へと向かう強い流れに巻き込まれると、無理に逆らうのは禁物。横へ泳ぐのが唯一の方法だ。
「落ち着け…冷静になれ…」
自分に言い聞かせながら、流れから抜け出すために横に移動しようとする。しかし、流れは想像以上に強く、浮き輪があるとはいえほとんど動けない。次第に体力が削られ、息が荒くなってくる。
ふと顔を上げると、水平線の向こうに人影が見えた。
「助けか…?」
一瞬そう思ったが、すぐに違和感に気づいた。彼らの姿はぼんやりとしていて、まるで海と一体化しているようだ。しかも一人ではない。複数の人影が、まばらに浮かびながらこちらをじっと見ている。
「…なんだ、あれ…?」
恐怖が全身を支配する中、次の瞬間、足に冷たい感触が走った。
「うわっ!」
驚いて下を見た。そこには暗い海の底から無数の灰色の手が伸びてきていた。その手は痩せ細り、骨ばっていて、生気がない。まるで僕を引きずり込もうとしているかのように、強く足をつかんでいる。
「助けて…!」
声にならない叫びを上げながら、必死に手足をばたつかせるが、手はさらに絡みついてくる。視線を上げると、水平線の人影がいつの間にか近づいてきていた。距離を感じさせないほど不気味に静かに、そして一定の速さで。
彼らのぼんやりとした輪郭は少しずつ鮮明になり、青白い顔や虚ろな目がはっきりと見えてきた。
その目は、じっと僕を見つめている。
足元の冷たい手の力が強くなる。浮き輪を握る腕にも次第に力が入らなくなり、身体がどんどん下へ引きずられる感覚がした。
「助けて…誰か…!」
力尽きそうになったそのとき、頭上から大きな声が響いた。
「大丈夫だ!掴め!」
目を開けると、泳ぎの得意な友人の一人が僕の腕をつかんでいた。
「お前、急に沖に行ってどうしたんだよ!」
友人の力強い声が現実に引き戻してくれた。彼は僕を浮き輪ごと引っ張り、浜辺へ向かって泳ぎ始める。
その瞬間、足元の冷たい手がするりと消えた。見下ろすと、海底に沈んでいく無数の灰色の手が、まるで何か諦めたかのように溶けていくのが見えた。
水平線に見えていた人影も、気づけばもういなかった。
波はいつの間にか穏やかになり、友人に支えられながら浜辺へと戻ることができた。砂浜の感触を感じたとき、全身の力が抜け、涙がにじんだ。
浜辺にいた他の友人たちも駆け寄り、心配そうに声をかけてくる。
「急に1人で沖の方に行くから、びっくりしたよ!」
僕は震える声で、「離岸流に流されたんだ」と説明した。しかし、彼らは顔を見合わせ、困惑した様子で言った。
「でも、俺たちはずっと近くにいたんだぞ?何の流れも感じなかった。お前だけが急に沖の方へ進んでいったんだ。」
その言葉に背筋が凍る。確かに、離岸流なら周囲の人も同じように巻き込まれるはずだ。
「俺、泳いで行ったわけじゃない。間違いなく流されたんだ。」
そう力説しても、友人たちは半信半疑の表情だった。
「怖いこと言うなよ。おどかそうとしてるんだろ?」
冗談混じりにそう返してきたが、彼らも僕の雰囲気から、それが嘘ではないことを察しているようだった。ただ、誰もその現実を受け入れたくなかったのだろう。
もし浮き輪がなかったら…
泳ぎの得意な友達がいなかったら…
ここにはもう戻れていなかったと思う。