主人は温泉旅行が好きで、よく友人たちと出かけていました。その日も友人と一緒に旅行から帰ってきたのですが、彼の手には、小さなコケシが握られていました。普段、土産物には全く興味を示さない主人が「なんとなく惹かれた」と言って、リビングの棚に飾りました。
その時は特に気にしていませんでした。でも、その日から家の空気が少しずつ変わっていったのです。
ある夜、私は不思議な夢を見ました。暗い夜道を歩いていて、道の両側にはぎっしりとコケシが並んでおり、それぞれに小さな手が生えていました。しかも、その手が私をゆっくりと手招きしているんです。
進むたびに手が私の服や腕を掴む感覚がありました。怖くて逃げようとするんですが、足が動かない。そんな夢でした。
目が覚めた時、全身が汗でびっしょりでした。隣で寝ている主人を揺り起こすと、彼はうっすら微笑んで「なんだ、大丈夫だよ」と言い、再び眠りに落ちました。その微笑みがどこか不自然で人間らしくない気がして、私はそれ以上声をかけることができませんでした。
3歳の息子も最初はそのコケシを気に入っているようで、時々手に取って遊んでいました。でも数日後から様子が変わり、コケシを見るたびに怯えるようになって「おばけがいる!」と泣き叫ぶんです。
私は怖くなってコケシを片付けようとしましたが、主人がそれを止めました。「触るな」と強い口調で言われたんです。普段は温厚な人なのに、まるで別人のようでした。
「なんでそこまで?」と尋ねると、「俺が選んできたんだ。捨てるなんてかわいそうだろ」と返され、それ以上、私は何も言えませんでした。
翌日、私はコケシの目の角度や口の形が少し変わっているような気がしたのです。それは気の所為ではなく、日に日に表情が悲しみの顔へ確実に変わっていきました。そしてある日、息子の顔に似てきていることに気づきました。
息子はますますコケシを怖がり、部屋に入ることすら拒否するようになりました。その時、ふと思ったんです。コケシの表情は、息子が泣き叫ぶ時の顔そのものでした。
夜中、私はリビングから微かな声を聞きました。そっと覗くと、主人がコケシを手に取り、まるで家族に話しかけるように「寂しくないか」「俺がそばにいる」と言っているんです。
その瞬間、私は信じられないものを見ました。コケシが、主人の方を向いて微笑んだんです。その場にいるだけで背筋が凍りました。
もうこの家に置いておくわけにはいかない。私は主人が仕事に出かけた隙に、コケシをタオルに包み、人形供養を行っている神社に向かいました。
神主さんに渡すと、彼はじっとコケシを見て、「これは……深い悲しみを抱えているね」と呟きました。なぜ悲しいのか聞かない方がいい気がして、「お焚き上げよろしくお願いします」とだけ伝えてその神社をあとにしました。
その夜、息子が突然高熱を出しました。「あつい……あつい……」とうなされ、苦しそうにのたうち回る息子を見て、私はあのコケシと息子がなにか繋がってしまっているのではないかと不安になりましたが、一晩寝ると何事もなかったかのように元気になり、笑顔を見せてくれました。
主人も、コケシへの執着がすっかりなくなっており、「あれ、気味悪かったもんな」と笑っていました。私はその変わりように安堵した反面、あれだけ頑なに守っていた姿を思い出し、どこか引っかかるものを感じました。
その夜、私はまたあの夢を見ました。暗い夜道。両側にはびっしりとコケシが並び、手招きをしています。道の先には小さな影、息子が立っていました。
息子は私に向かって手を振り、あの悲しい顔のコケシと共に暗闇の中へ消えていったのです。
私は息子のもとに行きたいのに無数のコケシの腕に捕まれ体を動かすことができません。必死にもがいているうちに夢から覚めました。
翌朝、息子はいつも通りにリビングで遊んでいます。でも、私はその顔をじっと見つめてしまいました。
「……ねぇ、あなたは本物だよね?」
思わずそう口にしてしまいました。
息子はきょとんとした顔で「どうしたの、ママ?」と答えました。その声は間違いなく息子のものです。でも、私の心のざわつきはおさまらず、あれはただの夢だと必死に自分に言い聞かせました。
あのコケシが、きちんと供養されたことを願うばかりです。