異世界体験

怖い話

きっかけは、学校での些細な出来事だった。

ここ数週間、私はどこか空虚だった。親友だと思っていた子が私を避け始め、グループの中での居場所がなくなったような気がしていた。学校では笑顔を作って過ごしていたけど、家に帰るとその疲れが一気に押し寄せる。部屋で一人、天井を見つめながら、心が沈んでいく感覚が増えていった。

そんな時、SNSで「異世界へ少しだけ行ってみる方法」を見つけた。

「不思議な世界に行ってきた」「世界の本質が見える」「いい体験ができた」

そんな言葉がコメント欄に溢れていて、好奇心と共に「何か変わるかもしれない」という期待が私を動かした。まるで逃げ場がないみたいに感じていた私は、現実から少しでも離れられるなら試す価値があると思った。帰って来れないわけじゃない。ちゃんと戻る方法も書かれていたし、大丈夫だろうと自分に言い聞かせた。

それに、ただの都市伝説だと思っていた。そんなの本当にできるわけない、そう思い込むことで恐怖を抑え込んでいたんだ。

「準備は整った…」

薄暗い自分の部屋で、机の上に並べた道具を眺めながら、小さく息をつく。SNSで見た「異世界体験」の方法は想像以上に細かい手順が必要だった。

まずは部屋を完全に暗くする。窓を閉め、外からの光や音が入らないようにして、静けさを作る。そして、ロウソクを使い、机の四隅にそれぞれ一本ずつ置く。真ん中には水を張った小さなボウル。その水面に自分の顔が映るようにして座るのが重要らしい。

次に用意するのは自分の「記憶の象徴」。SNSでは、「大切な人や物と深く結びついたもの」が必要とされていた。私は愛猫のみぃの毛が付いた小さなリボンを選んだ。それをボウルの横に置く。

さらに、心を落ち着かせるための音楽を流す。推奨されていたのは単調な旋律のオルゴール音。私はスマホでそれに近い音源を探して流し始めた。

最後に、自分の名前と生年月日、そして「戻るべき理由」を心の中で強く念じながら目を閉じる。それが「鍵」だという。

全ての準備を終え、私は椅子に座り、深呼吸を始めた。手順を間違えたらどうなるか、そんなことを考えたら急に不安が襲ってきたけれど、「デマだろうし、仮に本当でも手順通りなら戻れるはず」と自分に言い聞かせた。

はっと気が付いて目に入ってきたものは、霧が立ち込める無人の街だった。見上げれば、空は薄い灰色で、太陽も星もない。地面はひび割れたアスファルトで、ところどころに雑草のようなものが生えている。ビルや家の影が霧の向こうにぼんやりと浮かび上がっているが、全てが無機質で、どこか生気を失ったように見えた。

耳をすませば、風が吹いているような音が聞こえる。けれど、実際に風は感じない。不自然な静けさが肌にまとわりつくようだった。

私は恐る恐る歩き始めた。歩くたびに、足音が反響する。でも、その音も何か吸い込まれるように遠くへ消えていく。空気が重くて、息を吸うたびに胸が圧迫されるような感覚があった。

「戻らなきゃ…」

ここがどこなのかは分からないけど、この場所に長くいたくないという本能的な恐怖が湧いてきた。私は、SNSで読んだ「戻り方」の手順を思い出した。深呼吸をして、自分の体をイメージする。それを何度も繰り返した。

けれど、何も起こらない。どれだけ祈っても、瞑想しても、私は自分の体に戻れなかった。

やがて、私は道に迷い始めた。同じような建物や街並みが繰り返し現れる。霧が深くなるたびに、不安が増していく。もしかして、このままずっとここに閉じ込められるのかもしれない。

「誰もいない…本当にここに私しかいないの?」

その静寂に耐えられなくなり、助けを求め始めた。

「私…私ここにいるよ!助けて!」

自分の声が空虚に反響し、すぐに消えていく。どれだけ叫んでも、誰の返事もない。

時間の感覚がなくなっていた。昼も夜もない世界で、ただ霧の中を歩き続けた。喉が渇くことも、空腹を感じることもない代わりに、体がどんどん軽くなっていく気がした。

「ここで私は、何になるんだろう?」

そんな考えが頭をよぎるたびに、心が冷たく凍りつく。私は家族のことを思い出し始めた。お母さんの優しい声、お父さんのぶっきらぼうだけど温かい態度、そして愛猫のみぃの存在。私がいなくなったら、この人たちは悲しむだろうか。

その思いにすがりつき、家族の名前を泣きながら呼び続けた。けれど、返事はない。ただ、自分の声が虚しく反響するだけ。

「最後に、みぃに会いたかったな…」

ポツリとそう呟いた瞬間、「ニャオ」という鳴き声が背後から聞こえた。

振り返ると、そこにはみぃがいた。真っ白な毛が霧に溶け込みそうなほど淡く見えるけど、その緑色の瞳はいつもの彼女そのものだった。

「みぃ…?」

彼女は何も言わず、しっぽを揺らして歩き始める。私はそれにすがるようについて行った。みぃの後を追うたびに、霧が少しずつ薄れていく気がした。

彼女の背中を見ていると、不思議な安心感が胸に広がっていった。足元の道が柔らかくなり、霧が晴れると同時に、私はふと意識を失った。

気が付いた時、私は自宅のベランダで、手すりに身を乗り出していた。

「うわっ!」

慌てて体を引き、尻もちをつく。心臓がバクバクと鳴っていた。さっきまでの出来事が夢だったのか現実だったのか、全く分からない。ただ、あの感覚はあまりにもリアルだった。

耳元で、「…チッ」と舌打ちのような音が聞こえた気がしたが、振り返っても誰もいない。

部屋に戻ると、みぃが足元に擦り寄ってきた。抱き上げると、彼女は小さく喉を鳴らして、安心したような顔をしていた。

「ありがとう、みぃ…。あなたがいてくれなかったら、戻れなかったよ。」

彼女は「当然でしょ」とでも言うように、私に顔を擦り付けた。

「私は独りじゃないね」

そう言いながらみぃのあごをくすぐると、気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らした。

その後、あの「異世界体験」の方法を調べようとしたが、SNS上からは全て消えていた。それが幻覚だったのか、それとも本当に死の世界を垣間見たのか、今となっては分からない。

だけど、あの世界から戻ることができた時に悔しがったなにかがいたのは確かだ。

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