鏡の違和感に気づいたのは、ほんの些細な瞬間だった。鏡の中の「私」が、ほんの少し遅れて動いているように見えた。それは一度気になりだすと、どうしても目を離せなくなる類の感覚だった。
その鏡は先週フリーマーケットで手に入れた、彫刻が施されたアンティーク鏡だった。どこか重々しいが、「古いけど味がある」と一目惚れしたのだ。
最初は疲れているせいだと思った。友達と深夜まで飲み歩き、帰宅後に鏡の前で髪を整えていたとき、手の動きがズレて映っているような気がした。
「気のせいだよね…。」
自分にそう言い聞かせ、その夜は布団に潜り込んだ。
翌日、朝の身支度をしているときも、鏡の中の「私」の動きがどこか変だった。私が右を向けば、鏡の中の私はほんの一瞬だけ遅れて右を向く。それが時間が経つにつれて、ついには同じ動きをしなくなっていった。
あるとき、私は鏡の前で笑ってみた。ところが、鏡の中の「私」は笑わなかった。ただ無表情でじっとこちらを見つめていた。その瞳には冷たさが宿っていて、見ているだけで背筋が凍るようだった。
怖くなって、友達の彩に相談した。
「きっと疲れでしょ。古い鏡だから歪んで見えたりしてるんじゃない?」
彩は軽く笑い飛ばしたけど、私はどうしてもただの疲れだとは思えなかった。
その夜、夢の中で私は鏡の前に立っていた。鏡には、もう一人の「私」が映っている。その「私」は私をじっと見つめ、微笑んだ。そして、低い声でつぶやいた。
「いつ代わってくれる?」
目が覚めた瞬間、心臓がバクバクと音を立てていた。汗でびっしょりの額を拭いながら布団の中で震え、布団をかぶったまま、私は朝が来るのを待った。
朝になり、恐る恐る鏡を見ると、そこには普通に「私」が映っていた。昨夜の夢はただの悪夢だったんだ、と自分に言い聞かせた。でも、その夜からさらに奇妙なことが起き始めた。
鏡の中の背景が、少しずつ変わっていることに気づいたのだ。
私の部屋にはない家具や装飾品――古びた木の椅子や、壁に掛けられた薄汚れた絵が映り込んでいた。最初は気のせいだと思った。でも、それがだんだんと明確になっていく。
私は鏡に布をかけ、「これで見なくて済む」と自分に言い聞かせた。
その夜、再び夢を見た。夢の中で、私は見覚えのない部屋にいた。冷たい空気が漂い、古びた家具が乱雑に並んでいる。
そこに「私」がいた。鏡の中の「私」がじっとこちらを見つめている。
「ねえ、代わってよ。」
低い声でそう言いながら、「私」がゆっくりと近づいてきた。私は必死に逃げようとしたが、足が動かない。「私」の顔はだんだんと歪んでいき、目が落ちくぼみ、ぽっかりと空いている。伸びてくるその手が私の肩を掴んだ瞬間、目が覚めた。
気がつくと、布団の中で震えていた。部屋の中は静まり返っている。でも、鏡の方を見た瞬間、血の気が引いた。
布をかけたはずの鏡が、むき出しになっていた。そして、鏡の中の「私」がこちらをじっと見つめて微笑んでいる。
「ありがとう」
その言葉と同時に、「私」が鏡の中から手を伸ばしてきた。私は叫び声を上げたが、体が動かない。「私」の手が私を掴み、引きずり込もうとする。
絶叫しながら目を覚ました。
部屋はいつも通りだった。鏡も布がかけられたままだ。
「夢だった……?」
頭を振りながら立ち上がり、鏡の前に立つ。布をよけて、いつも通りの「私」と目が合う。鏡の中の部屋は正常だし、背景もいつも通り。
でも、何かが違う。いや、何が違うのかもわからない。ただ、部屋に漂う空気がどこか違う気がするのだ。
私は鏡に映る自分をじっと見つめる。
鏡の中の「私」が、微かに微笑んでいる気がする。でも、それは本当に「私」なのだろうか。いや、そもそも今いるのは現実の部屋なのか、それとも……。
頭を振り、私は部屋を後にした。けれど、その日から、私は鏡を見るたびに自分の姿がどこか他人のように感じられる。
これが夢か現実か、それとも私は――どちらの世界にいるのだろうか。
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