大学生の私は、夏休みを利用して一人旅をしていた。新幹線を降り、ローカル線に揺られ、さらにバスを乗り継いでたどり着いたのは、山奥のひなびた温泉地。
日も暮れかけ、温泉街を歩いていると目に飛び込んできたのは、古びた看板だった。「山霧荘」と錆びついた文字がかろうじて読める。
賑やかだった温泉街から小道に入り少し進むと、しっとりとした空気に包まれ、苔むした屋根のやや古めかしい建物が現れた。
「ここなら安いかもな。」
駅前の観光案内所で紹介された宿はどれも高く、学生の予算を超えていた。私は迷わずこの山霧荘に向かった。玄関に入ると、奥からすっと女将が現れた。
「まあ、お若いお客様ですね。いらっしゃいませ。」
60代ほどの女将は微笑みを浮かべているが、どこか疲れたような表情だった。古びた帳場で手続きが済むと、女将は二階の角部屋へ案内してくれた。
「今日は他にお客様はいませんから、ゆっくりお過ごしください。」
部屋に入ると、少し不安を覚えた。部屋自体は広く、畳や障子も手入れされているが、湿っぽい空気と古めかしい家具が妙に心をざわつかせる。特に気になったのは、部屋の隅にある鏡台だった。黒光りする木製の鏡台で、鏡は曇っており、自分の姿がぼんやりとしか映らない。
「なんか、気味悪い。」
それでも旅の疲れが勝り、軽く荷物を整理してから旅館自慢の温泉へ向かった。温泉は確かに良かった。源泉掛け流しで、体の芯から温まる。風呂上がりには冷たい麦茶が用意されており、旅館自体に特に不満はなかった。
部屋に戻ると、布団が敷かれていた。さっぱりとした気分で横になると、すぐに眠りに落ちた。
深夜、何かの音で目が覚めた。耳を澄ますと、ポタ…ポタ…という水滴の音が聞こえる。時計を見ると午前2時。音は部屋のどこかからしている。寝ぼけた頭で考えた。
「水道が漏れてるのか?」
音のする方へ目を向けると、それは鏡台の方だった。布団から出て近づくと、音が止まった。しかし、鏡の曇りが消えている。そこに映っていたのは自分の姿ではなかった。
濡れた長い髪の女が鏡の中に立っている。顔は無表情だが、こちらをじっと見つめている。心臓が凍りついた。目を閉じ、開いてみても女の姿は消えない。手が震え、思わず鏡を背にして逃げた。
「気のせいだ…疲れてるだけだ…。」
震える声で自分に言い聞かせ、布団に潜り込んだ。だが、眠れるはずがない。しばらくすると、今度は襖が「スーッ」と音を立てて開いた。恐怖に駆られながら襖の方を見た。しかしそこは暗闇が広がっているだけ。
「誰かいるのか?」
返事はない。だが、確実に何かの気配を感じる。私は意を決して襖を閉めようと立ち上がり、手を伸ばした。その瞬間、背後から冷たい風が吹き抜けた。
すぐさま振り返ったが、そこには誰もいない。だが、部屋の空気が変わっていた。湿気を含んだ重苦しい空気の中、畳に無数の泥の足跡が浮かび上がっている。
「もうだめだ…出よう…。」
私は荷物を掴み、部屋を飛び出した。廊下を駆け下りて一階に降りると、帳場は真っ暗で誰もいない。靴を履き、外へ出ようと玄関の扉を開けようとしたが、扉は固く閉ざされている。何度も叩き、揺すってもびくともしない。
その時、背後から女将の声がした。
「どうされました?」
振り返ると、女将が立っている。だが、その顔はおかしい。青白く、目が真っ黒だ。口元には微笑みが浮かんでいるが、明らかに生気がない。
「お客様、急にどうされましたか?」
私は何も答えず、全力で扉を叩き続けた。すると、不意に扉が開き、外へ転がり出た。立ち上がって振り返ると、旅館の建物は消えていた。そこにはただの草むらが広がり、夜風が吹き抜けているだけだった。
狐にでもつつまれた気分になりながらも、その場から一刻でも早く立ち去りたい思いでいっぱいで早足でバス停まで戻り、ベンチで震えながら夜を明かした。
翌朝、私は案内所に再び訪れ、職員にこの話をしたが首をかしげるばかりだった。その時、ちょうど中にある売店へ野菜を置きにきていた高齢の男性が話を聞いており、ぽつりと言った。
「山霧荘?それは昔あった宿だよ。でもね、土砂崩れで潰れてしまってなぁ。何人か犠牲になってしもうて、あれは悲惨だった。もう40年も前のことだよ。」
私はそれ以上何も言えず、その土地をあとにした。話にあった犠牲者の念が呼び寄せたのだろうか。いまでも鮮明にあの女将の黒い目を思い出す。
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